
スーダン感想文
九州大学医学部医学科 6年
柳井 祐介
(06年3月17日〜22日)
手足は細くやせ、それとは不釣合いにお腹は膨らみ、何かを求めるように一点を見つめるアフリカの子供。小学生の時、社会の教科書で見た一枚の写真が、私が医者を目指した動機の一つである。まだ子供であった自分よりも小さな子供たちが、どこにいるのかはわからないが苦しんでいるという現実は、まだ世の中のことを何も知らない小学生の私に、医者になればこの子達の力になれると早合点させるほどの衝撃だった。それ以来、常に子供たちを助けてあげたいという思いを胸に勉学に勤しんできた、なんていうのは全くのはったりで、目標はあれこれ変わり、寄り道をしつつも、医者になることには何の疑問も持たずにやってきて、目の前に卒業式を控えている。ここに至るまで、小学生の時に哀れみや慈善の思いだけで描いたアフリカでの医療活動と、メディアによって伝えられる美しき人道的活動から得られるイメージだけを頼りにしてきたが、今回スーダンで見させていただいた川原先生の活動は、それとはきれいに重なるものではなく、驚きを沢山与えてくれた。6日間という短い滞在期間でありながら、その内容の濃さにまだすべてを消化しきれていないので、これを読んでくださった方々や再び私が読み返した時に何かを考える題材になることを期待して、とにかく、私が見てきたスーダンという国をありのままに書いてみたいと思う。
私達(今回私は同級生二人と卒業旅行を兼ねてスーダンに行った)がスーダンの首都ハルツームの国際空港に降り立ったのは3月17日夕方4時半頃。まだ冬の寒さの残る福岡を発ち、ドバイで3日間を過ごして暑さには慣れたつもりだったが、飛行機を降り、シャトルバスに乗り込む前にはすでに汗をかいていた。
翌早朝より、ハルツームより約500キロ離れたスーダン東部の村ガラルナハルに向けて出発。道中、車に備え付けられていた外気温計は測定上限の50℃にまで達し、辺りは一面の蜃気楼。早速のアフリカ砂漠ならではの歓迎に不安と冒険心が掻き立てられた。やがてアスファルトで舗装された道路を外れ、先人が通ってできただけのような道なき道を何度も引き返しながらガラルナハルにたどり着いたときには、真っ青だった空にオレンジ色がにじみ出したころだった。(スーダンでは時計の針より空が時間を伝えてくれるのです。)早速、先生のいる病院へ挨拶に向かったが、先生の診療室はまだ患者でごった返していた。その日先生が診た患者数は130〜140人。まさに野戦病院といった感じだった。
川原先生はガラルナハルを拠点にガダーレフ州で医療活動を行われている。ガダーレフにおけるcommon diseaseは、いわゆる風邪に始まり、マラリアやリーシュマニア症といった感染症、marasmus、kwashiorkor、貧血など栄養失調によるもの、手術では虫垂炎や帝王切開が多い。そして、アフリカ=貧困のイメージが強かった私にとって意外だったことに、多くの成人のお腹は膨れ、糖尿病が多いのだ。その理由は、たった1日現地の人々と生活してみればすぐにわかった。スーダンでは、朝起きて1杯と毎食後、さらに来客をもてなす時に、シャイ(いわゆるチャイ)という紅茶を飲む。これに、溶け切れないグラスの底に積もるほど砂糖を大量に加え、常に砂糖が飽和した状態で飲むのである。また、灼熱の砂漠で最もおいしい飲み物はコーラやスプライトといった炭酸飲料。安全な水の得られにくいスーダンでは、喉が渇けば市場で炭酸飲料を買い、来客のもてなしに炭酸飲料が出ることもある。いつの間にか私の脳はコーラを欲するようになっており、買ったり出されたりで、実に1日6本ものコーラを飲んだ日もあった。 まさに砂糖漬けである。
19日から3日間は川原先生に同行し、ガダーレフ州の役場や村々を廻った。まずガダーレフ州保健大臣にお会いし、ドカ、ハワータ、バズーラという村を視察。ドカはすでに川原先生が支援をされており、新しく病院が建てられていた。ハワータ、バズーラは今回の視察が始めてで、現地のドクターに会い、村の医療状況を聞く一方、ロシナンテスの活動の趣旨を説明し、協力の約束を交わした。特に力を入れている母子手帳に関しても、サンプルを提示して説明し、大変良い感触を得られたように思う。それまで、数々の武勇伝で私達の笑いとため息を誘っては大声で笑っていた川原先生が、現地ドクターを前に信念や志を語る時の目つきは、「風に向かって立つライオン」であるがごとく力強いもので、気付けば私も全身の筋肉を緊張させていた。
ドカやハワータには大きな病院があり、敷地内の木陰に沢山の患者家族が地面に座り込んで生活していた。病院に隣接して家族の宿泊施設のある日本と比較すると痛ましくもあるが、病気の家族を思う気持ちはもしかすると日本よりも強く、心温まる光景でもあった。ここでは、川原先生や現地ドクターに教育回診をしていただき、マラリアやカラアザールなどの患者さんを初めて見、診察もさせていただいた。中には、父親が現代医療に対しての理解を持たず、伝統医療、すなわちコーランでお祈りをして治そうとしていたところを、ドクターが1日かけて説得して救急車で運んできたという患者もいた。病院に来てからはすぐに回復の兆しが見え、父親も少しずつドクターに歩み寄っているようであった。もちろん、現代医療が全てというわけではないが、医療の全く行き届いていない所がスーダンには確実にあるわけで、このようなケースで命を落とす人がいるのではないかと思うと心が痛んだ。
このようなシステムの整っていない末端の現場においては、人と人とのつながりがコミュニティーの骨組みとなり、人と人との交流がダイナミズムとなる。医療支援とは、薬や医療器材といった物資を提供する、あるいは、ただ患者の病気を治すだけでは意味がない。いずれ、外国資本で作られ、ここ30年間一本の列車も走っていない線路のように鉄くずとなるだけであり、同じ治療をうけることができないで残された人々の悲しみを生むだけである。薬の使い方のわからない、器材があっても電気のこない村では現地に入り、人と交わりながらコミュニティーを、環境を整えていく。母子手帳のように手軽で誰にでも行き渡るものを広め、同時に教育を行っていくことで、人々の意識に変革を起してゆく。また、村のドクターであれ、途中立ち寄った医学校のドクターであれ、口々に言っていたように、日本とスーダンの医学生あるいはドクターの交換・交流を深め、互いに医療の質を高めていくといったことが望まれている。このように、人による人を対象とした地道な支援を積み重ねてこそ息の続くものとなるのではないかと思う。
村からの帰り、外はすっかり真っ暗になり、どこに道があるのかわからない。車の天井に、座席に体を打ち付けられ、私たちは悲鳴を上げた。川原先生への恩返しに案内・世話人を買って出ていたハーディーさんの道案内で帰ることが出来たが、いったい彼はどうやって道がわかるのか。標識なんてもちろんない。星座で方角を知っているのかと思って空を見上げれば、道しるべになりそうな星座をも隠してしまう無数の星が輝くばかりである。川原先生が「ここでは先のことはわからんよ。考えたことの半分も思い通りにならん。」と言っていた。そういいながら、先生は先の見えないアフリカを楽しんでるようだった。きっと、スーダンの人々の温かさと、生命力溢れるアフリカの大地が先生にエネルギーを与えているのだろう。
ハルツームに戻った最終日は、現地の小学校で英語を教えている傍ら、ロシナンテスのサポートをなさっている香川さんの計らいで、小学校の授業に参加させてもらった。村で遊んだ子供達も、都会の小学校の子供達も、突然現れた外国人に怖気づくことなく声をかけてき、ビー球はじきや、逆立ちを得意げに見せてくれたり、肩車をしてくれとどんどん寄ってきた。スポーツ好きの私達は子供達とサッカーを楽しんだが、小学校でゲームをした時、一人の男の子が「ユースケがキャプテンでいいよ。パスだすね。」と(もちろん英語で)声をかけてくれ、本当に毎回パスをくれては、私のワン・プレーが終わるたびに、親指を立てて笑顔を見せてくれた。村でも、泊まっていた家から朝の散歩に出かけようと外に出たとん、子供達が私の名前を呼んで家から飛び出してき、満面の笑みを浮かべてくれた。過酷な一日が始まろうとする時に彼らの愛らしい笑顔を見ると力が湧いた。アフリカに来て逆に私が子供達に励まされ、助けられてしまった。
私は今、医師としてのスタート地点に立とうとしている。幸か不幸か、ぎりぎりになって、今まで向かおうとしていたところが、スーダンで見た蜃気楼のごとく不確かで、もやもやと揺れ動いては輪郭のないものであったことがわかってしまった。本当に道しるべのない道に立たされた感じだ。その代わり、先の見えないものに立ち向かってゆく勇気をもらったような気がする。私が今から入っていく日本の医療現場も、人と人の交わりの上に成り立っていることには変わりないだろう。人との交流を大切にし、時には助けを求めながら、手を取り合っていかなければならない。イブン・シーナ病院のバーハ先生が、世の中はバランスの上に成り立っていると言っていた。自然、植物、動物や人間、生命あるものの循環とバランスの上にこの世は成り立っている。アフリカの大地ではそれを強く感じざるを得なかった。私もそのバランスの中の一部であることを忘れず、謙虚に生きてゆきたい。
最後に、卒業を控えた医学生とは到底思えぬ私を、笑って迎え入れてくださった川原先生をはじめ、無計画のまま飛び込んできた私達に、このように貴重な経験の数々を与えてくださったロシナンテス関係者の皆様に感謝の意を述べて終わりにしたいと思う。