特定非営利活動法人ロシナンテス

活動報告ブログ

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川原ブログ2022.07.25

10年ぶり!最初の事業地、ガダーレフ州ハサバッラ村を訪問

こんにちは、認定NPO法人ロシナンテスの川原です。今回、様々な事情で10年間一度も訪ねることができなかった、ロシナンテスの最初の事業地への再訪問が叶いました。感動の再会を果たし、支援のその後を直接見ることができましたので、皆さまにご報告です。

村に飾られていた当時の活動の様子

ガダーレフ出張がきっかけで始まった支援活動

私が大使館の医務官であった時、ハルツーム大学医学部の先生とハエに刺されて感染する寄生虫疾患であり、致死率の非常に高いリーシュマニア症の専門病院を視察しにガダーレフ州に行きました。病院には患者が溢れ、敷地内にある木の下にベッドが置かれて、一つのベッドに二人の患者さんがいるのを見て、この地域で医療支援をしようと決心しました。

なお、私はのちにリーシュマニア症に罹患しますが、致死率の高い内臓型ではなく皮膚型であり大事には至りませんでした。

さて、2005年に外務省を辞して個人的に医療支援を始めたガダーレフ州で、偶然にも州保健大臣にお会いすることがあり、その保健大臣から、ある村の支援をしてくれと依頼されました。その村がハサバッラ村でした。時は2006年のことでした。そこには建設されたばかりの診療所があったのですが、スタッフは誰も派遣されておらず、建物はあるものの設備は何もなく、診療所として全く機能していない状態でした。

ハサバッラ村での支援活動

私たちはハサバッラ村の村長であるハサンの家に泊まり込み、診療に取り組みました。最初は、ハサンをはじめ村の人たちは、外国人は支援に来てもすぐに村を離れていくと思っていたようです。我々との付き合い方も、なんだか表面的だったように思えます。

しかし、ハサンの家に泊まり込み、24時間体制で急患にも対応して診療を続けていき、それと同時に村の人たちと協力して、診療所の医療機材の設備をしてくれるようにガダーレフ州財務省に陳情に行きました。3ヶ月くらい陳情を繰り返していき、最終的に、財務省は医療機材や机などの診療所の備品全てを調達してくれました。完全な形で診療所をオープンする時には盛大な開所式を行いました。

日本から中古の救急車を持って行き、川の水を飲んでいることを知れば、井戸の改修や給水所の建設を行い、女の子が通うことができる小学校を作り、村が総合的に発展するようにしました。村で行われる結婚式や子供ができたお祝いに参加し、誰かが亡くなれば弔問を行いました。このようなことを続けていると、徐々に村の人たちが我々を深く受け入れてくれるようになってくるのが肌感覚でわかるようになりました。

ムスタファの悲劇

診療所で働いている我々のスタッフが二人いました。ハフィーダという事務手続きをする女性とムスタファというメディカルアシスタントです。メディカルアシスタントは、医師ではないものの医師のいない地域では診療が許されています。彼は本当に一生懸命に医療に取り組んでいました。夜中の急患の対応も私と二人でしたものです。

若い男女が一緒に働いていましたので、いつしか二人は恋仲となりました。しかし、女性の家の格が高く、一方ムスタファの家は貧しく、結局ムスタファの結婚の申し出は彼女の父親から許可をもらうことができませんでした。

ムスタファから、その結果を聞いた時、「もう一度自分に向き合って、本当に彼女のことが好きであれば、再度彼女の家に行って結婚を申し込んでみたら」とアドバイスをしました。それを受けて、ムスタファはハフィーダの両親に結婚を申し込むべく、「今、そっちに行くから」と彼女に電話をかけ、彼女の家に向かって行ったのです。

しかし、ムスタファは彼女に会うことは2度とありませんでした。彼女の家に行く途中に彼は交通事故で亡くなったのです。ハフィーダの悲しみは計り知れないものでした。またハサンをはじめ村の人たち、そして私たちも深い悲しみに包まれました。

いろんなことがあり、時には声を上げてともに喜び、時にはともに悲しみ、我々と思いを一緒にしたのがハサバッラ村の人たちなのです。

活動停止命令

スーダンにはHAC(Humanitarian Aid Commissioner、人道支援委員会)というNGOを管理する政府機関があります。我々NGOは地方に行く場合、移動許可をHACから発行してもらわないと、どこにも行くことができません。また日本人スタッフの入国ビザを発行するのも、HACです。HACは我々の安全のためと称して、いろんな規制をかけてきます。

2011年、HACはロシナンテスを含む欧米系の7つの団体に活動停止命令を出しました。この活動停止命令が出された時は、私が日本に帰国した直後だったのですが、とんぼ返りでスーダンに戻ってきました。当時、スーダンは米国からテロ支援国家と指定され、経済制裁も受けていましたので、日本を含む欧米諸国との関係は緊張していました。そのような背景があっての活動停止命令であり活動地をあとにする団体もありましたが、我々はHACと交渉を行い、1年間の猶予をもらいました。JICAの草の根支援事業を行なっていましたので、ロシナンテスは名目上、活動を停止しますが、実質的には一時的にスタッフをJICA所属にして、1年間支援活動を継続しました。

この間、我々がハサバッラ村を出て行っても、彼らのみで運営できる体制を築けるような出口戦略を行いました。そして、1年後我々はこの地域から撤退しました。のちにスーダン政府からは「JICAは素晴らしい事業をしてくれた」と高い評価を得ましたが、我々は事業が継続されることを祈るのみでした。

これまでに何度かフォローアップのために、同地を訪問したいとHACにお伺いを立ててきましたが、活動停止命令が出た上での撤退でしたのでハサバッラ村にいくことは許されませんでした。

10年ぶりのガダーレフ訪問

我々が撤退してから10年が経過したタイミングで、ローカルスタッフが新たな情報を持ってきました。それは、新規事業を行う準備があるのであれば、そのための現地調査を目的として、ガダーレフ州を訪問しても良いというものでした。ザンビアで行なっている事業をスーダンでも展開できないかと検討していましたので、そのための調査ということにして、HACにその旨の申請を出し、許可を得ることができました。10年ぶりの正式なガダーレフ州訪問となります。しかし、お目付役として3名のHACスタッフを同行しなければなりませんでしたし、ハサバッラ村に行けるという確証もありませんでした。事前にハサバッラ村に行くということをHACに申請をしたのですが、これに関しては現地で行くかどうかを決めるとのみ言われました。

何はともあれ、久しぶりに公式にガダーレフ州に行けることになり、心は躍ります。ハサバッラ村の村長ハサンに連絡したところ、大変喜んでくれ、村全体で歓迎したいので、いつになるのか知らせてくれとのこと。しかし、スケジュールは我々だけでは決められません。なんとももどかしいのが現実です。

地図に掲載されたハサバッラ村

首都ハルツームから7時間余りの移動の後、ガダーレフ州HACに行き、打ち合わせ。そして、ガダーレフでのスケジュールを決めます。その間にもハサンから「とにかく、いつ来るんだ?歓迎式典をしたいので教えてくれ!」と連絡があります。しかし、我々からはいつ村を訪問するとは言えません。全てはHACの意向なのです。

翌日、ガダーレフ州の保健省に行って協議をしました。最近のエチオピア情勢で多くの難民がガダーレフ州に入ってきているとのこと。難民に対して、国連などが手厚い支援をおこなっているが、周辺の村落では支援がなく、ロシナテスのように難民ではない地域住民に対しての支援はありがたいといった旨のことを言われました。

保健省に掲げられてあった州名の地図に、なんとハサバッラ村が記されてありました。以前は、ほとんど存在感のない村でしたが、ついに州政府の地図に載るようになったんだ!と深い感銘を覚えました。さて、我々はハサバッラ村に行けるのか!と期待半分、不安半分の気分です。

次に同地域での中心的な町であるショワックに行きます、そこでまた意見交換。いくつかの視察の村を挙げられ、そちらに向かっている最中に、HACとの連絡担当のローカルスタッフから、今HACと交渉してこの村の後にハサバッラ村に行けるようになった、と耳打ちをされました。

急ぎハサンに電話をかけますが、通じません。村の人たちには何も連絡をせず突撃訪問となりますが、ハサバッラ村に行けることになり、私の胸は高鳴ってきます。

ハサバッラ村訪問

幹線道路をしばらく走らせます。雨季の時に流れる水で侵食されてできた独特の波を打ったような土地が広がって行きます。10年前には何度もここを通って見慣れた光景です。幹線道路を右に折れ、村に続く未舗装路に入ります。この分岐点にロシナンテスの看板を立てていたのですが、今では跡形もありません。でも、ここの風景は何一つ変わっていません。広大な農地が広がり、ラクダや羊が群れをなしているのが見えます。

未舗装路の終わりがハサバッラ村の入り口です。給水施設があり、はっきりとはしていませんがロシナンテスの看板が見えます。診療所があり、その向こうには女子小学校が見えます。全て、ロシナンテスのプロジェクトで建設したものです。

診療所の外見はかなり劣化していましたが、きちんと機能していました

我々が車から降りると、村の人たちの視線がこちらに向きます。最初は怪訝な顔をしていましたが、私とわかると「ロシナンテス!」「カワハラ!」と大きな声を発しながら、次々と私たちのもとに駆け寄ってきます。ただただ、感激しました。

「元気だったか」「あの時のメンバーはどうしているか?」など、みんなロシナンテスのことを覚えてくれています。残念ながらハサンは農地に行って連絡が取れませんが、多くの村の人たちに挨拶をすることができました。

持続可能な事業

診療所、救急車、給水所、それに女子小学校、全てが稼働していました。救急車や給水所はこの10年のうちに数回故障したようですが、有料体制を敷いていた診療所や給水システムで村の人たちは上手にお金を管理していて、その中から修理代を全てではないですが負担できたとのこと。足らない分は、州政府にお願いして支払ってもらった、などと我々が一緒になって事業を運営していたのと同じやり方を踏襲してくれていました。

何度か故障もしたものの、いまも近距離の輸送で活躍する救急車
運営システム含めきちんと機能していた給水所の様子

我々のような外部の支援がなくとも、自分達だけで診療所、救急車、給水所、学校を運営できて行っていける。これぞ、持続可能な事業であると言えるでしょう。

村の人たちは、ロシナンテスのおかげ、日本の皆様のおかげで村が発展したと言っていますが、彼らがしっかりと事業の継承をしてくれているからこその発展だと思います。我々がこの村を離れた後のスーダンの状況は非常に厳しいものでしたが、そんな中でも、それぞれの事業を継続して行っている彼らは本当に素晴らしいと思います。

ロシナンテスの提案で作成し、現在も大切に使われていた診療所のスタッフ紹介

我々が、かつて寝泊まりしていたハサンの家に行きました。我々が使っていたグッティーヤと呼ばれる小屋は朽ち果てていましたが、その代わり立派なゲストハウスが建設されていました。

10年前には考えられなかったきれいな建物に驚き

また、農業がうまく行っているのでしょう、大型の農業機械も備えてありました。ハサンの子供たちは大きく成長して、その中の数人は結婚して子供を持っていました。2人の奥さんに20人以上の子供がいます。孫も10人以上います。いやはや、立派なものです、ハサンは!!

村の有力者の1人であるオスマンの一家が我々を自宅に招き入れてくれます。そしてヤギを屠り、食事の用意を進めてくれます。これは最大級のおもてなしとなります。オスマンや他の村人は泊まって行けよ!と言いますが、それはHACの許可が取れません。ホテルのある場所までもどらないといけません。降ってくるような星空の下、外で寝ることを楽しみにしていましたが、またの機会を楽しみにしましょう。

ハサバッラ村の子供が大学に

村の人たちと話を進めていくうちに、村の中で大学に進学した子供がいるとのことを知りました。さらにハサンの2人の子供も大学に進学していました。女子小学校を卒業して看護の勉強をしに大学に進学した女の子もいました。

現在の女子小学校の様子

そしてなんと、医師を目指して医学部に進学した子もいました。この話を聞いただけで、涙が自然と流れてきました。我々が初めてここに入った時、ハサンをはじめとして大人の大半は文盲でしたが、村人たちは我々と共に過ごすうちに、学ぶことの大切さを知り、自分の子供たちには高等教育を受けさせていたのです。

ハサバッラ村を訪問したあと、日本の支援者の方向けにオンラインで講演を行ったのですが、この時の様子を話していると不覚にも涙が流れてきました。恥ずかしい限りでしたが、それくらいに私自身が嬉しかったのでしょう。自分でもそんな感情になるとは思ってもいませんでした。その後、医学部に進学した青年、大学で経済を学ぶハサンの息子2人にハルツームで会うことができました。3人で一緒に住んでいるようで、ハサバッラ村からの仕送りで大学生活を送っているのでしょう。そして3人ともスマートフォンを持っていて、私とはSNSで繋がるようになりました。

あらゆる事業を自分たちの手で継続させてきた村の人たちや、大学で学ぶ青年たちを見ていると、今後さらに先を目指せるのではないかと考えてもいます。つまり、ここで新たな事業が展開できる可能性があると信じるようになってきました。

スーダンの政治は未だ安定しておらず、経済も悪化の一途ですが、現在の発展したハサバッラ村、この村出身の大学で学ぶ若者たちを見ることができて、暗闇の中の一筋の明るい光を見たようにも感じます。彼らと共に次のステージに進みたいです。

次回の訪問も検討します。その時にはハサンにも会えるでしょう!

村の大人の反応を見て、集まってきてくれた子どもたち