3年ぶりのハルツーム
こんにちは、理事長の川原です。
2023年4月15日、スーダンで内戦が始まりました。
私は4月23日にハルツームを脱出し、車で約30時間かけてポートスーダンまで移動しました。そこから自衛隊機によってジブチへ退避し、日本へ帰国したのは4月29日でした。
あれから3年以上の歳月が流れました。
首都ハルツームは長らくRSF(即応支援部隊)の支配下にありましたが、2025年3月下旬、国軍が奪還しました。
※RSF:準軍事組織Rapid Support Forceの略。2023年4月にスーダン国軍(SAF)との軍事衝突が発生し、ハルツーム国際空港が占拠されるなど戦闘地域は瞬く間に広まった。
海外へ避難していた私の知人たちは、奪還後すぐにハルツームへ戻り始めました。私も「行けるだろうか」と尋ねましたが、返ってきた答えは「まだ来るべきではない」というものでした。
電気や水道などのライフラインは十分に復旧しておらず、マラリアやデング熱、さらにはコレラなどの感染症も広がっているというのです。
その後、スーダン政府は市内のクリーンキャンペーンを実施し、衛生環境の改善やインフラの復旧を急ピッチで進めました。そして2026年2月には、ポートスーダンとハルツームを結ぶ商用機の定期便が再開されました。
知人の多くもハルツームへ戻り始め、「今なら行ける」と判断し、私は2026年6月、3年2か月ぶりにハルツームの地を踏むことを決心しました。
3年ぶりのスーダンで見た光景
実は「ハルツーム」と一言で言っても、その地域は広大です。青ナイル川と白ナイル川、そして合流したナイル川によって、大きく三つの地域に分かれています。

政治・経済の中心であるハルツーム、一般市民が多く暮らすオムドルマン、そして工業地帯である北ハルツームです。
私が向かったのは、政治・経済の中心地であるハルツームでした。ロシナンテスの事務所も、私が暮らしていた家も、この地域にあります。
事務所の扉を開けると、そこには荒れ果てた光景が広がっていました。

書類は床一面に散乱し、机や棚も荒らされていました。私の部屋も同じ状態でした。
何より胸が痛んだのは、長年大切に保管してきた手紙が無残に散らばっていたことです。一通一通に思い出があり、多くの人とのつながりが詰まっていました。
それでも、残されていた資料の中には希望を感じさせるものもありました。
2013年、私はスーダンの子どもたちを長崎へ連れて行く機会に恵まれました。そのご縁で長崎市から原爆に関する資料をご提供いただき、それらをアラビア語で紹介しながら、ハルツーム大学で「長崎原爆展」を開催しました。
その時の貴重な資料が、奇跡的に残されていたのです。

私はそれらを大切に持ち帰りました。そして、「いつの日か、平和を取り戻したハルツームで、もう一度長崎原爆展を開催したい」と心に誓いました。
スーダンの復興に向けて
その後、自宅へ向かいました。
家の前に立つと、通りを挟んだ向かいの家の壁には無数の銃痕が残っていました。

管理人によれば、この一帯はRSFの支配地域となり、国軍との間で激しい銃撃戦が繰り広げられたそうです。
そして、私の家にもRSFの兵士たちが住み込んでいたと聞かされました。
さらに近くの空き地には、砲撃や戦闘で破壊された車が何台も放置されていました。
その中に、一台だけ見覚えのある車がありました。
ロシナンテスの車でした。

活動のために走り続け、多くの命を支えてきた車が、無残な姿になってそこに横たわっていました。
言葉になりませんでした。
悲しみしかありません。
それでも私は、この街を再び歩くことができました。
戦争は建物だけではなく、人々の暮らしや思い出、そして未来まで奪っていきます。しかし、その一方で、この街には再び立ち上がろうとする人々がいます。
私もまた、その人たちとともに、スーダンの復興を歩んでいきたいと思います。
過去のブログ「内戦による退避後、初めてハルツームへ|再び動き始めた医療と水の支援ー活動報告会レポート」でも、スーダンでの活動を紹介しています。ぜひ一読ください。
